2018年7月11日水曜日

ウタ、ライブ出演者紹介その9「愚弁」

愚弁


7月14日(土)に高円寺DOM studioで行われる第一回てろてろ自主企画 「ウタ、ライブ」の出演者を、てろてろの各メンバーが紹介していきます。第九回は愚弁です。 

例えば、地下アイドルというジャンルの「地下」というのは色々なことを意味していると思います。
単に売れてないとか人気がないとかだけでなく、アナーキーであったりインディーズだったり、といった規制の弱さ(無さ)ゆえの自由度。またその飽和状態から、魅力と「感じられる」ものの幅を広げなければ頭一つ抜けることが難しく、結果奇抜さで目立とうとして過激化、混沌化してゆく。そういった先鋭化を意味するのが「地下」という言葉な気がします。

アイドルに特に明るくない自分から観た数年前の(地下)アイドルブームというのはこういうもので、それはある意味アイドルがパンク化している現象のように感じていました。その時代に心の底からノレなかった居心地の悪さは常にあったし、逆にパンクやらロックやらをバンドでやろうとしている人達の方が、多くは行儀の良い「あるべき反骨」みたいな偶像に収まろう収まろうと、つまりアイドル化していたようにも感じていました。インターネットの発達や再結成ブームで、お手本になる「伝説のバンド」が身近になったことや、過激さや意外性の幅がアイドルのギャップと比べて狭い(ロック的なことをロックとされるものがやるのは当たり前なので)からそう感じただけかもしれないのですが、2010〜2015年くらいまでは、ロックをやる、しかもやって売れる、というのは本当に大変な時代だったように感じます。

「地下室ノ表現者たち」というイベントを定期的に主催している愚弁は、ロックやパンクやジャズみたいな過激を、そういった時代にも雛形に閉じ込めることをしないで「地下」であり続けた(ロックし、パンクし、ジャズし続けた)人たちです。
 ウタとカラダでパフォーマンスを担当する谷口さんが、その場でクルクルと回ってどこにも行かない動きをするのを見るのが私は好きでした。本当は地上に出たくてしようがないのに、浮上する人々を見上げては恨み、地下を……いや自分自身の現状を肯定する「地底」の人のそれとは違う、自覚的な地下への志向。それは中島らもが言う「蚊の目玉の論理」による倒錯した下降志向、下であることこそが上という弱者の強者に対する怨恨が生む不健全な価値転倒、開き直りなどでない、あくまでも過激で苦しい場所にとどまり続ける前向きな諦念と覚悟の選択、を全身で表しているようでした。上や下でなく、周りや後ろを振り返らず常に己の目の前を見つめ続けている。愚弁は、私にとって文字通りの前衛でした。

アイドルブーム後。ニューウェーブ、プログレ、フォーク、HIP HOP、渋谷系、果てはノイズといった一般的でなかった音楽性が、アイドルというフィルターを通して楽曲提供されたことで伝わりやすくなり、音楽的にオルタナティブな人、実験的な人たちが随分とやりやすくなった印象があります。いわゆる「エモさ」にも多様性があることを広めたアイドルブームには、一定の意味があったのだと思います。

けれど、自分の中で最もエモいバンドは、どんな時代にも常に前衛をひた走り続け(だからこそ色んな人に愛される)、そしてこれからも続けていく(愛され続ける)愚弁でした。(評者 Vo,Sax:及川耕碩)

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