てろてろは、2018年から開催している自主企画「ウタ、ライブ」を中心にした精力的なバンド活動を展開し始めている。
そのルーツはフリージャズ、プログレッシブ・ロック
、オルタナティブロック、そしてパンクロック(特に80年代パンク・ニューウェーブ)。世間からすればマイナージャンルには間違いないが、こうした異形音楽を掘った人であれば、字面だけなら決して珍しい融合ジャンルではないだろう。
しかし、私自身の独善的偏見まみれの話になるが、
本バンド程、これらの音楽要素の「正しいまとめ方」を認知し、実践せんとしているバンドを知らない。
この「正しさ」とは、「"着地点としてパンク"の徹底した嗜好」の一言に集約される。
つまり、サウンドが如何なるものでも、
表現上の最終的な着地点を「世に是正せねばならぬ間違いがある」という精神的訴えを、あくまで言語(詩)によって伝えることに重きを置いているという点である。
一聴頂ければわかると思うが、そのサウンドは
変拍子、フリージャズ、マスロック等の要素をふんだんに盛り込みつつも
必ず「言葉」を引き立たせるための一定の
「サビ」ないし、「引き」の部分を欠かさない。
語り言葉は、その異形のサウンドをバックに付けることで、精神的感情的な明瞭な色彩を獲得している。
単純な朗読とは全く異なる趣を持つことはきっと誰の耳にも明らかなことだろう。
主義思想を説くならば、読書や演説会が良いし、純然たる楽曲の良さはインストによって味わうことができる。
だが、人が奮い立とうとする時、誰かを奮い立たせようとした時、
本当にこれらだけが全ての人に対しての十分な答えか。
「パンク」などと名乗ってしまったら、サウンドの多くは爆音化し、
言葉は周りの楽器音に埋もれ、時には単語のかけらがやっと聞き取れる程度のことも多い。
これは、上述の工夫を凝らしたてろてろのライブとて、完全なる例外ではない。
しかし、私はこれを、
「主義主張が多い癖に肝心のライブで爆音で歌詞が全部聴こえないパンクの矛盾」だとは
思っていない。
サウンドと混然一体となった言葉、その言葉の奥の精神性をかけらでも感じた時の高揚、臨場感は
「ああ、そうか、、、」という理屈を超えた生へのエネルギーを与えてくれる。
その作用は、例え聞こえなかったとしても、それでも伝えようとする
泥臭く懸命なもがきからのみ生まれると私は信じている。
てろてろは言葉を、大切にしている。パンク的着地に向け、このもがき誰よりも行っているのである。トリを飾る彼らの、この営みこそを観て欲しい
10/26、彼らが如何なるライブを見せてくれるか楽しみでならない。
(関口マーフィー・うしろ前さかさ族)
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