2019年3月5日火曜日

ウタ、ライブ2出演者紹介その1「死神紫郎」

2月2日、死神紫郎さんの自主企画「四人の死角vol.3」へ。死神さんは死神さんが死神さんだったころから(死神さんは昨年改名されて「死神紫郎」さんになりました)度々企画を行っていて、どれも必ず「あー、死神さんの企画だ」と思わされるオリジナリティの塊みたいな、かつ良質な企画なのです。
翌2月の3日は、  今回てろてろが企画を行う東高円寺二万電圧で行われていたコピバン企画へ。お目当てのムJAPAN(Xの一人カバー。むちゃくちゃだ)以外のバンドも観たのですが、どれも上手いしオリジナルへの愛が感じられました。
2日続けて良いライブを観た私は、丸ノ内線に乗り込み、「ええもん観たわ」とホクホク帰途についたのです。

帰りの電車でボンヤリ「良いコピーと、悪いオリジナルならばどちらが良いのだろう」と、考えるともなく考え、がたんがたんと電車に揺られていました。

良い悪いというのはとても曖昧な基準ですが、自分の中の尺度の一つに「自我が滅失した見世物」というものがあります。
個人というのは他者との関係性で生まれるものですが、自身を顧みても、その個人の中の我欲、私欲、損得勘定が極端であるとき、自分の中の他者が限りなく0に近く消えてしまったときの人の振る舞いはとかく無様なもので、「オリジナルであること」に拘るという行為も、私には似たものでした。
というのも、私自身長くコピーバンドをやっていて、コピーというのは自分を消して何者かに成り代わる行為ですから、愛で言うならアガペー、全身を投げ出して自分が消えるといいライブができるわけだ、とそういう実感があったのです。
ガタゴト、ガタゴト、東高円寺から新宿までは8分です。お酒も沢山飲んでいたので、時間はもっと速いです。思考がどんどん過去へ過去へと進みます。

インターネットが発達して、消費者としてはこれ以上なく良い環境が整ってきています。にも関わらず作られる「オリジナル」、これは相当に難しい。
オリジナルの語源はオリジン、源泉という意味だそうですが、つまりその人から湧き出ているとわかれば(思わせてもらえれば)、形式や方法論が同じでもオリジナルに感じられるはずです。
継ぎ接ぎや 剽窃がいとも簡単にわかってしまう時代に、オリジナルな表現、その人でなければいけないと「思える」表現をするには、その人の人生を、命をかけなければいけない。そうしなければ、良い表現(自我の滅失した、それがそれであることにだけ意味のある)は作れない。逆に言えば、簡単に「良い表現」をしたいなら、簡単に自己を滅却できる「コピーバンド」が一番いい。
……というのも、「オリジナル」の名のもとに行われるちくともオリジナルでも新しくもないだらしないステージや、逆にオリジナルに拘りすぎて音楽はおろかパフォーマンスにもならない何かを観すぎていたから、本気でそう思っていたし、今でもやっぱりそう思います。
自分を極めて自分を超えていくというのはそれほど難しいことのはずで、みんなから「ニセモノ」「まがいもの」と言われ続けてそれでも続けた果てに成れるもののはずです。死神紫郎さんは、ニセモノでしょうか。本物でしょうか。私の中ではすでに結論が出ているのですが、答えは皆さんに実際の生のステージを観ていただいて、判断して頂きたい。

ところで良い企画というのは、その企画者自身の要素が各出演者に感じられる、それが総体となってどれ一つ欠けても成り立たないと、観終わったあとの観客がそう思えるものですが、そのためにはただ自分の好きなバンドや表現者をより集めるだけでは難しいものです。死神さんはプレイヤーとしてだけでもなく、オーガナイザーとしても優れた方だと思います。それぐらい、自身の「オリジナリティ」が際立っているということです。
(評者 Vo,Sax:及川耕碩)






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